ARAWA社

“よかれ“と思って

“よかれ“と思ってしている数々の“よくなかった“こと。

 

行為者と受け手の心情を紐解いてみると、

 

善意のつもりの行動が、

受け手にとっては、嫌な行動になってしまうことは、心苦しいけれど起こり得ることだ。

 

包丁持ってると危ない?

 

視覚障害の女性がトークテーマとして、“よかれ“エピソードを挙げていた。

 

調理の仕事がしたいのに、なかなか厨房に入れさせてもらえなかったという事例。

 

調理経験もある彼女だけれど、店長にとっては、「見えない」状態で包丁を持っていることがどうしても危険に見えてしまう。

 

目が見えない状態で包丁を使ったことがないのだから、店長がそう思ってしまうのは無理もないこと。

 

“女性に怪我をしてほしくない、守りたい“

というの気持ちから、厨房に入らない仕事を任せていたのだけれど、

 

女性本人は、悔しかった。

「調理の仕事がしたかった」

 

視覚障害の女性にとっては、見えない状態が日常だから、その状態で包丁を持ち調理するのは日常の動作。

 

手で触った感触を活かして調理を進めることができる。

「どうして、調理もできるのにその仕事をさせてもらえないのか?」

という気持ちになっていた。

 

店長の心配事も理解できるし、

 

女性の方の、自分のできることを認められない悔しさも理解できた。

 

 

親切心の買い物

 

同様のことが私の生活でもあった。

 

バーベキューの準備について、友人と話した後、友人は“よかれ“と思って

 

100円のショップで、使い捨てのコップや紙皿、レジャーシートを買ってくれていた。

 

私は環境問題解決に取り組んでおり、100円ショップの在り方に賛同していない。

 

100円ショップが小分けの商品を、各々ビニール袋に入れて、次々に商品の入れ替えをして販売している在り方が、どうしても環境に負荷をかけているのがわかってしまうからだ。

 

“どうしても“という時以外は、消費行動として100円ショップを応援したくないと思っている。

 

しかし、そのことを友人と話したことはなくて、友人は“よかれ“と思って、家から持参できるものを色々と購入してくれていた。

 

親切心からの買い物だった。

ありがとう。

 

私自身も“よかれ“と思ってした行為が、受け手にとっては“要らない“ことだった苦い経験がある。

 

 

介助とは

 

駅のホームで電車を待っていると、視覚障害の杖を持った方がフラフラと歩いている。

 

私には危なっかしく見えて「何か助けられることがあるかな?」と声をかけてみた。

 

その方は、喋ることができなかった。

 

ジェスチャーで、白杖についた札を見せれくれた。

 

その札には、

「私は、視覚障害と聴覚障害があります。話すことができません」

 

といった内容が書かれてあった。

 

私には視覚障害や車椅子利用者等への介助の仕方について、多少なりとも知識と経験があったので、袖を触って誘導しようとした。

 

しかし、介助は要らないというジェスチャーをされた。

 

介助不要と判断、でも危なっかしく見えるので気にして見ていたところ、電車がホームに到着。

 

電車は空いていて、その方の近くに座る。

 

その方とは、携帯電話の文字入力で会話しながら東京へ向かうことになった。

 

弱視なので、携帯電話の画面を目の近くまで近づけると読むことができるようだ。

 

年齢や性別を訊かれたので、その方の携帯電話に文字入力で回答する。

 

「ああ、女性の方はどういう人が介助しているか」

 

という確認をしないと介助される方も心配なのだな、ということに納得した。

 

ある程度性別が判断できる、「声」が聞こえない彼女にとっては、誰が袖を持っているのかはわからない。

 

それも恐怖なことだと、彼女の気持ちを察した。

 

私の立場が、子育て中の母親であることも明かして、相手に安心してもらう。

それぞれの目的地までの車中で、私は子供達の年齢を回答したり、行き先を伝えたりした。

 

視覚障害と聴覚障害があっても、携帯電話の文字入力で会話ができることを知れて、その用途は障害者の方の行動を広げているということを実感していた。

 

文字入力の会話の中で、

「何かお手伝いできることがありますか?」

と聞いてみた。

 

すると、

「トイレに行きたい」

とのこと。

 

幸い、私も急がなければならない用事ではなかったし、横浜駅でトイレの介助をすることになった。

 

混んでいるので多目的トイレではなく、女子トイレに入る。

どの個室が空いているかを、目視で判断できないのはトイレ利用の際にきっと困ることがあるのだろう。

 

個室に入って、介助をしてみると、

 

その女性は、男性だった。

 

「わっ」と私が声をあげずに驚いた時に、

 

その人は「ニヤリ」とした。

 

この一件で色々なことがわかってしまった。

 

“よかれ“と思ってした介助が、本人にとっては不満だったこと。

腕を触った感じも柔らかくて、背丈も小さく、容姿が女性らしいその男性は、多少なりとも世の中に不満を抱いていた。

 

身体的にも、言動でも、どうしても勝負できない場合に、SNS等は携帯の文字入力さえできれば、誰かに反撃することもできるということ・・・

 

直感的に思った。

 

私にとっては嫌がらせをされたことになるのだけど、全て許した。

 

きっと不自由なことは大変で、自力でできるところを介助しようとした私のお節介がいけなかったのだ。

 

その後も、電車内でその方と文字入力の会話をしながら東京へ向かう。

 

(私が嫌がらせされたことについて)「怒ってないんですか?」と訊かれた。

 

その時の私は、驚いたけれど、その方の背景にある諸々を想像して怒る気にはならなかった。

 

次は渋谷駅に到着するというところで、もう一度

 

「トイレに行きたい」

 

と文字入力してきた。

 

「え?」

(また同じことされるのは嫌だな、でもできる限りのヘルプをしてみよう)

 

「お願いします」

と入力されるので、

 

とりあえず渋谷駅で降りた。

ちょうど通りかかった駅員さんにその方を引き渡させてもらった。

 

「この方、お手洗いに行きたいようです・・・」

 

駅員さんは女性だったので、アレするなよ、と思ったけれど。

 

自分の中に、“助けてあげたい“という自己満足にも近い気持ちがあることを知る良い機会だった。

 

 

 

 

 

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